わたしがまだ大学生だったころのはなしです。だいぶ年上の先輩は○○さん(かなり珍しい呼び名だと思うので伏せておく。偉大な指導者、みたいな意味だ)と呼ばれていて「なんかすごい」人なんだと周りから一目も二目も三目もおかれて崇められていた。確かにすごそうなんだけど、なんかちょっとこわい、気がしてなるべくその人には近寄らないようにしていたのだけれど、ある日こう言ってるところに遭遇した。
「人間関係なんて、いっしょうけんめいやるもんじゃないだろ」
わー。ぜんぜん偉そうでもなんでもなく、さらっとそう言うわけ。かっこよすぎるだろ。
確かにその先輩はたぶん「天秤」きっと「天秤」」みあふれる人で、いつもスマートで全方位への配慮に富んだ外交力バリバリで、それはきっと天性の資質だけじゃなく後天的にいろいろ試行錯誤した上でそう言ってるんだろうなーとか、そういうこの人に泣かされてる人もいっぱいいるんだろうなーとか、そういうよけいなことまで考えてしまった。
点数がつくような試験だったらいっしょうけんめいやったから合格する可能性は高まるかもしれないし、なにかの試合だっていっしょうけんめいやらなければ勝てないだろう。でもそういうのとちがって「人間関係」は努力して点数を高めるとか、ましてや相手を打ちのめしたり論破論破するような勝負とは性質がちがう。「イッショウケンメイナヒトダナー」とおもうからといって、好きになるかどうかは全然別の問題だ。
「いっしょうけんめいやる」の解釈がたぶん人によって違うかもしれない。「じゃあいっしょうけんめいがんばらないから、ありのままの剥き出しのわたしを愛せよ!」っていうのは暴論だ。だけど、人に好かれようとしてあれこれ一方的に努力しすぎたり、相手の顔色を伺ってアプローチしがちな人たちには「いっしょうけんめいやるもんじゃないだろう」って発想はとってもだいじだよね。
みたいなことを、このカードを見るとおもいだす。
クリスタルの2は、物質的世界のバランスを表現するカードだと言われるけれど、これどうみえます?おそらくカードの画角の都合で、シーソーはかなり急角度で高くまで上がっているからよけいに不安定にみえるのかもしれない。向かい合って遊んでいるようだけれど、それぞれ違う方向を向いているし、どんな雰囲気なのかちょっとわかりにくい。
この場面がどうみえるか、それはあなたの心の中に起こる反応だから、それはこんどわたしにこっそりおしえてほしい。